衰退三原市の象徴

2024年は能登地震という大災害で幕が明いた。

ここ三原市では、オギロパンの廃業のニュースに激震が走った。

【閉業】オギロパンさんが2024年1月6日をもって閉業されました。 https://mj-mihara.com/open_close/13273/

残念、淋しい、そして長年美味しいパンを届けてくれてありがとうという感謝の声が、日本全国(三原出身者)からsns上で飛び交った。私も遠方に暮らす妹達に知らせた。同窓生で作るLINEグループ上でも、fb上でも大きな話題になった。三原市民に愛されてきたパン屋さんでした。

 

と、過去形になる。愛されてきたからこそ、誰も客観的な事は言わない、書かない。

私はパンが大好きで、オギロパンの思い出は山ほどある。

思い出を中心に、歴史的な事など、いろいろ語ってみたい。

 

私はバスで、館町にある広大附属小学校に通っていました。(1964年4月~)給食が始まったのは65年4月から。でも、土曜日は給食がないので、バス通学の私はお弁当持参、もしくは学校のすぐそばにあったオギロパンを買いに行くことができました。毎週土曜日には50円持ってオギロパンに行き、20円のコーヒー牛乳、10円のジャムパン、バターパン(当時の商品名、現しゃりしゃりパン)、コッペパン(全国的にはメロンパン)と、大体決まっていましたが、あんパンだけは苦手でした。

オギロパンの店舗は館町だけでなく、駅前にもありました。こちらの方が当然、売上は大きかったと推察します。遠方から来る親戚の伯父さんは、手土産としてオギロのあんパンを持ってきていました。あんパンの苦手な私は伯父さんの丸い顔と体があんパンに見えて、叔父さんまでも苦手になってしまいました。何で手土産にあんパンを、と思っていましたが、当時の一般的感覚では、オギロのあんパンは高級和菓子に匹敵するくらいのものだったからではないでしょうか。というのも、あんパンは明治7年に木村屋で開発され大評判となり、翌年には天皇へ献上されたということですから、庶民にとってはあこがれの食べ物だったのでしょうね。

 

ところで、この駅前に、タカキベーカリーが進出してきました。バス通学していた私は、バスを待って毎日1時間程度はボーッと過ごしていたので、ぼんやりと記憶に残っています。

うるさかったのです❗️タカキベーカリーの宣伝を大音量でスピーカーから流し続けるのです。通りの同じ並びにあるオギロパンに戦意剥き出しの対抗宣伝のようなものでした。駅でバスを待つ人々にとってこの大音量の宣伝は本当に鬱陶しくて、逆効果でしかないように思えたのです。当時、小学校の担任の先生が話題に取り上げたので、おそらく1966,7年(昭和41,2年)頃の事だと思います。

昭和40年代に入ると、皆実町の蓮根畑を突っ切る国道2号線沿いに、次々と建物が建ち始めました。私は毎日通学するバスの中からその変化を眺めていました。オギロパンの工場もできました。大好きなオギロパンがいっぱい食べられるかと思いきや、2号線沿いの工場に途中下車してまで買いに行くわけにはいきません。しかも、工場建設と同時に学校前の店舗は閉められ、私が中学生になった時には校内の売店でパンが売られており、それはタカキベーカリーのパンでした。高校に入っても売店で売られているのはタカキベーカリー

私が高校生の頃(1973~1975)、出張で広島から帰ってきた父が大興奮していました。タカキベーカリーのやっているアンデルセンという店が素晴らしい❗️と。同じ頃、三原駅前ではタカキベーカリーがセルフ方式の販売を始めていました。今では当たり前ですが、当時は誰もがビックリの斬新なパン販売方法でした。

 

私が高校を卒業して三原を離れたのは1975年春。新幹線博多まで開通の時。あれから50年近く経つ。私がこの三原に戻ってきたのは7年前?8年前?

三原を離れていた間の街の衰退ぶりに愕然とする。何が?と問われても、具体的に答えられない。私には、オギロパンの廃業と三原市の衰退とが重なって見える。オギロパンの衰退はタカキベーカリーと比較することでよく見えてくる。パン文化を視点にもう少し考えてみたい。