宮本常一が見た広島

三原で開催されている宮本常一の写真展。
彼が三原の町をどのように眺めていたのかを知りたかったが、
写真だけではよくわからない。

だが、広島に対する視点はいくつか説明がされていて、それはとてもおもしろかった。
その一つを紹介しよう。

 江戸時代の広島は、浅野42万6千石の城下町。瀬戸内きっての雄藩であり、城下町の反映も他を凌ぎました。
浅野藩は多数の職人や商人をそれぞれ同業者ごとに居住させました。現在も紙屋町、竹屋町、幟町、袋町、鉄砲町・・・等の地名にその名残りがあります。それだけ藩の強い統制に置かれ、町民たちの自治精神の形成は遅れたと宮本は見ています。

 市民の自治精神は祭礼を通じて発達すると宮本は考えました。京都の祇園祭、大阪の天神祭、博多の山笠などはそれを物語るものですが、広島には胡子祭をのぞいて市民祭らしいものはありませんでした。
しかも、明治になってからも師団司令部、連隊、練兵場などによって占められ、軍都としての性格をおびてゆきます。
 
 敗戦を経て初めて、市民の町に生まれ変わり、町の様相も一変しました。
「この町ほど大きく変身した例は、他に見られぬと言っていいのではないか。」と
宮本は述べています。


宮本常一が亡くなったのは1981年。
広島フラワーフェスティバルが始まったのは1977年。
フラワーフェスティバルが市民の祭りとしてここまで盛大に大きく成長した姿を宮本常一は知らない。
しかし彼の言葉は、今の広島を予見するものだったのではないかと、
改めて彼の洞察の鋭さに驚く。
「敗戦を経て初めて、市民の町に生まれ変わり、大きく変身した広島」
の市民の一人として、感動した。