御幸橋

広島に住むものにとって、「御幸橋」といえば千田町と宇品を結ぶ大きくて立派な橋を言います。
被爆直後に撮影されたことで有名な松重美人さんの写真は、御幸橋西詰めで写されたものです。
明治18年明治天皇が御巡幸されて以来「御幸橋」と呼ばれるようになったそうです。
ところで、
広島にはもう一つ「御幸橋」があるのはご存知でしょうか?
西区草津西国街道の中です。
    
この写真は御幸橋の西から東を見て撮ったものです。橋の向こうに見える立派な旧家が小泉酒造です。
小泉家の前にはいわくありげな石碑が立っています。
明治18年(1885)明治天皇が山口・広島・岡山を巡幸された時と、明治27年(1894)昭憲皇太后が宮島へ参拝された時、どちらの時も小泉家で休憩されたそうです。これを記念して建てられた碑だそうです。

さて、私が何でこんなことを書いているかというと、以前書いた「塾長の骨董品」の続きなんです。
明治天皇正室昭憲皇太后肖像画が出てきて、調べるうちどんどん興味が湧いてくるんです。
例えば、これが絵ではなくて写真なら、ここまで興味は湧かなかったでしょう。
写真はたくさん出回っています。ただし、明治天皇は写真に撮られることをひどくきらっていたので、肖像画を描かせ、それを写真に撮ったものが一般に配られたのです。私たちが教科書で見てきた明治天皇の写真は、実は絵だったのです。絵は写真のように量産できません。この絵が、写真を基に描かれた絵であっても、絵であることに意味があるように思えるのです。
次の写真は、前の写真の反対側から撮ったものです。つまり、小泉酒造側から御幸橋を西に見たものです。
    
橋を渡ってほんのちょっと歩いたところに、昭憲皇太后御尊影像の元の持ち主の御宅がありました。

明治18年、27年、というのも気になる年代です。
いろいろな想像で頭の中がグルグルになりそうです。スマイルさんが眠れなくなると言っておられましたが、ほんとにそうです。
スマイルさんが教えてくださったのですが、昔の家には普通、天皇、皇后の写真が飾ってあったのだそうです。
今回、おばあさんに確認したところ、昭憲皇太后の写真は洋装だったそうです。
そう、昭憲皇太后といえば、洋装で有名な方でした。
ですが、洋装になったのは明治27年ごろだった、と、どこかに書いてあったような?(確認できてません)
明治27年といえば日清戦争です。広島で国会が開かれたんですね〜。
どんなことが、この広島で起きていたんでしょうかね〜。知りたいですね。ただの興味本位でしかありませんが。。。

参考までに、以前の日記。
http://d.hatena.ne.jp/akira2008/20080907/1220798464
http://d.hatena.ne.jp/akira2008/20080908


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