推理(善根寺)

地籍調査説明会で配られた地図の神社マークが気になる。

小学生の頃に見た地図にはちゃんとお寺マーク「卍」が入っていた。
当時、私は善根寺という正式名を知らなかった。誰もが「やくっさん」と呼んでいたあばら家を、どうして寺だと思うだろうか。「やくっさん」は子どもたちの遊び場であり、大人たちの寄り合いの場所であり、なぜだかそこには何体もの仏像があって、ちょっと恐い場所でもあった。あるとき担任の先生から「あなたの家の近くに有名なお寺がありますね」と言われ、「お寺なんてありません」と答えたことがある。しかし学校でもらった地図にはちゃんとお寺マークが入っている。不思議だった。祖父に訊いてはじめて「やくっさん」が「善根寺」という寺だと知った。その頃からだったと思う、祖父が収蔵庫建設に動き始めたのは。りっぱな収蔵庫が完成したのは私が中学生になった時だった。

保存会のHさんが話された「廃仏毀釈令」で、私は祖父との会話を思い出した。坊さんもいないあばら家がどうして寺なのか、私は不思議で祖父に訊いたような気がする。おぼろげな記憶だが、「坊さんが逃げた」と、祖父は言ったように思う。逃げた〜?
もちろんそのときは廃仏毀釈令のことなど知らないし、子どもだったし、笑い話で終ったかもしれない。

廃仏毀釈令が吹き荒れ、坊さんは逃げたのかもしれない。寺と仏像を守るため、人々はそこを寺とは言わず、神社だと言い張ったのではないか?だから、明治の地籍調査を基に作られている地図には善根寺の位置に神社マークが入っているのではないだろうか?

ここからは善根寺保存会のHさんの説明によるものだが、(伝聞なので、正確でないかもしれません)
小坂には荒神(コウジン)様がいて、それぞれの地区で講を持っているのだそうで、収蔵庫の隣にあるのはこの地区の(10軒くらい?)
土井講なんだそうです。さて、これを神社と言うのでしょうか?

廃仏毀釈令とは一体どんなものだったのか気になり、ちょっと調べてみたのですが、う〜ん、ひどいものですね。
私は自分の推理に自信を持ってしまいます。

明治初頭といえばたかだか140年前。歴史は激動で資料は多数残っているだろうけど、庶民の歴史や暮らしについてはまったく記憶されていないというのは驚きでもあり、残念だ。
明治維新については疑問なことが多すぎて、いかがわしくさえ感じる。善根寺と並行して関心のある古保利薬師も同様、廃仏毀釈令を生き延びたその裏に、葬られた事実がありそう。そしてもう一つの私の関心事、「武一騒動」も廃仏毀釈令と時期と場所が重なるので、もしかして何か関連あるのかも?