軍歌

捨てるというレコードの山を、アキハバラ塾の塾長が頂いてきました。
なつかしい歌手の顔が並ぶジャケットの数々・・・。

その中に異様なジャケットが1枚。

軍歌集・・・ひえ〜っ!!!

中を開くと、公民館のシールが貼ってあります。
と、いうことは、このレコード、公民館の所蔵だったんですね〜。
う〜ん、公民館に軍歌、どうなのよ、と、思いつつ、
歌詞に目を通してびっくり。


  「戦友」
           作詞 真下飛泉
           作曲 三善和気
1. ここは御国を何百里 はなれて遠き満州
   赤い夕日に照らされて 友は野末の石の下

2. 思えば悲し昨日まで まっさき駆けて突進し
   敵をさんざん懲したる 勇士はここに眠れるか

3. あゝ戦いの最中に となりに居ったこの友の
   にわかにはたと倒れしを われは思わず駆けよりて

4. 軍律きびしき中なれど これが見捨てて置かりょうか
   「しっかりせよ」と抱き起し 仮ほう帯 弾の中

5. 折からおこる突貫に 友はようよう顔あげて
   「お国のためだかまわずに 遅れてくれな」と目に涙

6. あとに心は残れども 残しちゃならぬこの身体
   「それじゃ行くよ」と別れたが 永の別れとなったのか

子どもの頃に、1番だけはよく耳にしていたので、曲はよく頭に残っています。でも、続く2番、3番がこんな内容だったなんて、まったく知りませんでした。子どもの頃のことですから、「のずえのいしのした〜」って
歌ってましたが、まったく意味を理解してませんでした。
この歌をきいて涙ぐむ大人たちを見て、
軍国主義を懐かしんでる」って、思っていました。
違ってたんですね・・・。

この「戦友」の解説文も読んでみてください。

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 明治38年に作られたこの歌は14番まであって、友の最期を手紙に書いて親元へ送る。その手紙を書きながら思わず涙を流すところで終わっています。
 京都の小学校の先生だった真下飛泉が、陸軍軍曹として出征した義兄の話を聞いて作詞したもので、この歌の持つ哀調が日本人の心に共感を呼んで、兵隊も一般国民も、うたわないものはありませんでした。作曲の三善和気は、その当時京都の中学校教諭で、のちに宝塚歌劇音楽学校の講師をつとめた人です。
 まだレコードも普及していない時代なので「学校及び家庭用言文一致叙事唱歌」と銘うった一部2銭の楽譜が、飛ぶように売れたということです。この歌は、シリーズものの一部で、同じ作者により「出征」「露営」「戦友」「負傷」「看護」「凱旋」・・・・など姉妹編がありますが、この中の3番目の「戦友」だけが大ヒットしたというわけです。日清戦争時代に作られた「雪の進軍」の流れをくんで、だれでもうたえる口語体を使ったところに大きな特徴があり、現在まで愛唱される寿命の長い原因でもあります。また、この歌や後に出てくる「討匪行」などが、軍の士気を減退させるというので、太平洋戦争中は軍隊で禁止されたりしましたが、公式の場以外では兵隊たちに愛唱され、うたいつがれていました。

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この歌を軍歌と言ってよいのかどうか、やはり、歌い継がれる曲というのは、人々のこころに染み入るものなのでしょうね。
つまり、いつの時代も、人々は戦争なんて本当は嫌だってこと。


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