三原市文化の衰退?

このブックカバーの写真を見て「懐かしい!」と感じる三原市民はどのくらいでしょう。そんな人たちにはお馴染み、「みどり書店」のものです。私は十代の頃、このブックカバーが大好きで、買った本にこれをつけてもらうと、いっぱしの大人になった気持ちがしたものです。その頃はブックカバーが本屋の宣伝ツールということを知らず、18で三原を出て、見たことのないカパーが付けられた時は驚きました。結婚して私は広島に40年近く住んだのですが、広島空港の書店で本を買った時、このブックカバーが付けられ、何十年ぶりかで見たこのカパーに大感激。広島空港は三原市にあることを実感できたのです。

何十年ぶりかで戻ってきた三原は様変わりしていました。駅前からみどり書店は消え、大学通へ移転していました。見つけたのもつかの間、みどり書店は広島の興文館書店に合併され、かろうじて店名だけ残されたようです。

そしてある時、店は閉まっていました。ひっそりと。

昨年お正月明けのオギロパンの閉店は大々的に報じられましたが、私が見逃したのか、みどり書店の閉店は本当にひっそりでした。

私が十代だった昭和40年代には、みどり書店もオギロパンも駅前にあり、どれだけお世話になったことでしょう。その頃の私は、日本一の本屋、日本一美味しいパン屋だと思っていましたから、三原を代表する文化でもあったのです、私にとっては。その文化がこの2年の間に二つも消えてしまいました。

個人商店や中小企業の廃業は全国的な傾向です。ということは、個人の力ではどうにも出来ない社会的な力が働いているということではないでしょうか。次回、その辺りをもう少し考えてみたいと思います。

鴨居玲没後40年展覧会

最終日前日にあわてて駆け込んだ展覧会。30年前、没後10年の展覧会には最終日に訪れ、涙が出てしまうほど感動したものです。今回、そこまでの感動を得られなかったのは、私の精神状態の差も大きいとは思いますが、作品数の差と、何より展示方法の違いによるものと思われます。前回は制作年代順でしたが、今回はテーマごとに分類されて展示されていました。

ただ、今回はタイトル表示にキャプションが結構つけられていて、そのせいで一枚のキャプションからとんでもないことに気づいてしまいました。まあ、気付いたというより、私が知らなかった、というだけのことですが。

時間を50年前に巻き戻します。私は美術短大の油絵科の学生でした。表現したいもの、表現方法、技術、自己の内面を見つめながら学んでいました。ある時指導して下さっていた先生が、私の絵を見ながら「鴨居玲」について話しはじめました。素晴らしい画家だから是非、見にいくように、と。初めて聞く名前で、しかも展覧会の情報もわからず、ただ「鴨居玲」という名前だけが脳裏に刻み込まれていました。

30年前の1995年、先生が「見なさい」と言われた名前を思い出し、震えるような気持ちで没後10年展に行きました。

「ああ~、これだ!私が出したかった色、マチエール、表現」村の酔っぱらいや老婆、人生の悲哀を込めた一枚一枚の絵に感動しながら進みます。口から蛾を吐き出す画には深く共鳴。というのも私自身高校生の頃に、軽薄な会話やテレビから流れてくる言葉に嫌気が差して、日記帳に同じような図柄の落書きをしているのです。あの時の想いがこんな風に深い作品になってしまうところに鴨居玲という作家の凄さを感じます。そして最後には・・・それについては後述します。制作年代順に作品を眺めていくと、突然、教会の絵が出てきます。同じ頃裸婦像も出てきます。何だか不思議です。違和感があります。正直に言うと、私はこれらのシリーズは好きではありません。教会の絵だけど、そこに信仰心は感じられません。むしろ宗教に対する恐怖を感じてしまいます。(すみません、信仰心のない私のかってな感想です)裸婦像はますますわかりません。何を表現したいのか、不気味ですらあります。ここに来て人生に迷いでも生じたのでしょうか?

うーん、わからん、と思いつつ歩を進めると自画像が並びはじめます。絶望したかのような虚ろな顔、視線のつかめない穴のように塗りつぶされた眼(描かれていないのに眼というのは変か?)、ため息というより最後のあがきのようにも見える空いた口。その口から飛び出してくる蛾。「しゃべる」と題されたその自画像(人物の姿からすると)は、己の空虚さを表しているのか?「勲章」というタイトルですが、勲章の位置にあるのはあきらかに酒瓶の蓋。「酔って候」「出を待つ(道化師)」「肖像」は皆、同じポーズ。「肖像」は鴨居玲の顔(仮面?)を手に持つのっぺらぼう、というひねりのきいた自画像です。だから同じポーズというのは、顔は違っても自画像だということでしょう。そしてこれら多くの自画像の真ん中にどーんと置かれた大作「私」

もう、涙が溢れます。鴨居玲というドラマを観終えたような感覚でした。その感動を抱きしめて、10周年記念の画集とエッセイ集「踊り候え」を買って帰りましたが、エッセイ集を開くことはありませんでした。感動も日常の雑事に覆われ、30年の時が流れてしまいました。

今回びっくりしたキャプションというのは、パレットに描かれた自画像のものでした。「美術評論家の坂崎乙郞氏に贈られた」と、ありました❗️

坂崎乙郞!坂崎乙郞!

再び50年前に戻ります。美術短大生の私は坂崎乙郞氏の追っかけ、というほどではないですが、氏の著作を読み、講演を聞きに行っておりました。これも指導してもらっていた先生から勧められたんだったかなぁ?私は氏の言葉をまるで神の言葉のように受け止め、絵とは何?何を表現するの?と、考えていました。その坂崎先生が翌年から我が大学の講師として迎えられるということで、これは何としても短大卒業後に4年制に編入しなくては、と、焦りました。しかし私には経済的な余裕がく、悩みに悩んでおりましたところ、偶然にも横断歩道で坂崎先生と出会ったのです。もちろん、先生は私のことは知りません。が、私の切迫した視線に気付かれたのか、不思議そうな表情で私を見て行かれます。あまりにも突然で、声を掛けてよいものかどうか、私にとって神様のような存在で畏れ多く、そのまますれ違ってしまいました。情けないやら悲しいやら、でもこれは私の熱意の無さの証明であり、編入は諦めろ、ということなんだろう、そう判断し、卒業後は働くことにしました。

結局、私はその後結婚し、子育てに終われる日々。そんなある日、私は坂崎乙郞氏の死亡記事を見つけました。自死とありました。なぜ?何で?どうして?これで絵と私の縁は切れたな、と観念しました。

私の大好きな画家、鴨居玲と、大好きな評論家、坂崎乙郞に繋がりがあったなんて、美術界隈に気を配っていれば気付きそうなもの。気付かなかったということは、二人に繋がりができたのは私の短大卒業後だろう。それにしても、自死された坂崎氏に自画像を贈るって、え?もしかして、鴨居玲自死?私は慌てて展覧会場でスマホを取り出し、調べはじめました。予想通りでした。鴨居玲は1985年9月7日に、後を追うように坂崎乙郞は同年12月21日に亡くなっているのです。私が気付かなかったのは、私がまだ鴨居玲の絵を見ていなかったせいでしょう。そして1985年8月といえば、日航ジャンボ機が御巣鷹に墜落した時です。私はその時二人目の子を流産しそうになり、入院してました。入院したにも関わらず流産してしまい、社会の出来事どころではない日々でした。そんな時に目にしたのが、尊敬する坂崎先生の自死のニュースだったのです。

30年前の展覧会で涙が出たのは、まるで死を予感するかのような肖像画が並び、そして急逝。展覧会では急逝という言葉が使われているのでわからなかったのです。が、あの自画像達はあきらかに死に向かっています。

展覧会から帰ってきて私は直ぐ様、本棚の奥で眠っていた50年前の坂崎乙郞氏の著書と30年前の鴨居玲展覧会の画集とエッセイ集を探しだして読み始めました。

50年前あんなに憧れていた坂崎氏なのに、講演の中身も著書の内容も全く覚えていない、という情けなさ。でも、読み始めてすぐにわかりました。私の絵の見方は先生の影響そのものです。絵を見るではなく、絵を読むんです。絵の中にある精神性を。ただ、読める絵に出会えるのは少ないですが。そういう意味で言うと、鴨居玲ほどドラマティックに語りかけてくる絵はなかなかないでしょう。

エッセイ集はなかなか面白くて思わず吹き出してしまうところも。ですが、自分の絵について語っているところはどれも深い!これを読んで絵を見ると、より一層味わい深いものとなります。そして驚いたことには、このエッセイ集の中に坂崎乙郞氏との対談が収録されていたのです。何で30年前に気付かなかったのか!物凄く深い対談です。ここまで深く掘り下げて語り合えるのか、と、ため息が出ます。語り合いの行き着く先は「死」です。

再度私の話で恐縮ですが、短大入学してすぐ、6月4日に父が亡くなりました。私の美大進学に一番理解をしてくれていたのが父でしたが、父がいなくなるということは、精神的支柱が無くなる以上に経済的支柱の方が問題でした。なぜ絵を描くのか、という命題は物心両面の問題でもありましたが、「死」をどう見つめるのかということは大きなテーマになったのです。絵だけでなく、私はクラブ活動でモダンダンスを始めていましたから、肉体で何を表現するのか、という難問まで抱えてしまいました。自分の内にある何かを踊りで、絵で表現していくんだ!という高慢ちきな思いとは裏腹に伴わない技術不足で空回りばかり。空回りするのは技術不足 からだけではありません。むしろ何を表現するのか、の、「何」が消化しきれていなかったんだと思います。今ならそれを「宇宙の輪廻」と、言葉にするかもしれません。プラス「死への恐れ」でしょうか。真逆の観念です。空回りも当然です。こんな私ですが、絵を続けていたなら、ほんの少しくらいは鴨居玲に近づけたでしょうか。

なぜ絵をやめたのか。一番の理由は妊娠、出産です。すべての芸術とは言いませんが、人間の弱さや暗部をえぐり出す芸術に嫌気がさしたのです。これから産まれてくる赤ちゃんを思ってお腹をさすっていると、例えばマルキ·ド·サド「悪徳の栄え」和訳澁澤龍彦の本がとてもおぞましく見え、捨ててしまったほどです。日常の中で子どもを育てるということは、芸術に近づけなくなってしまうらしいです。考えても見てください。命を育てている時に「死」は考えられません。子どもを産んで私が一番変わったな、と感じたのは、「死」が恐くなくなったこと。自分の死より、子どもの「死」が恐くてたまらない。そういえば、エッセイ集の中で鴨居玲は飼い犬の話で、母の言葉をのせている。

~うかつにあいつ(飼い犬)より早く死ぬ訳にもゆかないなどと、身軽だったいままでの私には始めての経験ともいえるみょうな気持ちをこの頃味わっている。そういえば死んだおっかさんも、「お前がもう少し、しっかりするまでは死に切れんー」などとよく同じようなことを言っていたのを思い出し苦笑しております。

 

展覧会の感想のつもりが半分自伝のようになっちゃいました。それだけ、鴨居玲という作家は人の感性に刺激を与えてしまうんですね。鴨居玲を入り口に、人生についての対話がいくらでもできそうです。どなたか、お付き合いくださいませ。

日本社会の変わり目

 

30年くらい前だろうか。中学生の息子の歴史教科書を眺めていた。資料の絵に目が止まった。江戸時代の農民の暮らしで、農作業の様子が克明に描かれていた。農機具などが実に精密に描かれているが、驚いたことに、私にはそのほとんどに見覚えがある。私が記憶している幼い頃の農村風景と江戸時代の農村風景が、服装を除いてほとんど一緒なのだ。これには驚いた👀‼️年代で言うと昭和30年代。子供の頃から、日本は戦後変わったのだ、とさんざん教えられてきた。江戸時代なんてはるか昔の話、と、思っていたのに、農民の暮らしはそんなに変わっていなかったんじゃないか?では、いつから?

子供の頃からの記憶をつなぎ合わせると、1964年、昭和39年の東京オリンピックを境に日本は大きく変化していった、と、私は思っている。政治経済では、戦後日本は変わった、と言うけれど、私の庶民感覚で言うと、高度経済成長が暮らしを変え人々の意識を変えていった、と思っている。

常日頃そんなことを考えていて、昭和40年前後の変化を記録しておいたほうがいいんじゃないかな~と、ぼんやり考えていたとき、この本に出会った!図書館で。

田原開起(たはらはるゆき)著      「百姓と仕事の民族」  発行2014年3月31日

この本では百姓と仕事で、まず、「人と牛」を取り上げ、多くのページをつかっている。そして牛耕の終わりが百姓から農業労働者へと移り変わってゆく様子を聞き取り、記録されている。

親から子へと受け継がれた農業の知恵や文化も「古い」の一言で葬り去られていった。

この一文には思わず涙がでそうになる。そう、確かに、昔のおじいちゃん、おばあちゃんたちは語らなかった。

最近、日本人の心を取り戻そう、とか、武士道とか、日本人らしさとか、歴史を見直そうとする気運があるが、ほとんどの日本人は百姓だったことを忘れてはいけないと思う。百姓たちが作り上げ受け継いできたものを、今一度思い出してみたい。

 

降圧剤

叔母、叔父夫婦、いとこ夫婦、私、久しぶりに6人で食事に行った。叔母がマスクをしているので「どうしたの?」ときくと、転んで顔に傷ができたと言う。転んだと聞いて、また、意識を失って転んだのかと思った。今までにも、叔母は意識を失って転んだことが数度ある。

叔母の姉である私の亡き母もよく転倒していた。当時私は広島に住んでいて、入院の度に呼び寄せられ、私を呼ぶためにわざと転んでいるのかと勘ぐる始末だった。一緒に暮らし始めて、とんでもない誤解だったと気付いた。母は毎日20種類ちかくもの薬を飲んでいたのだ。几帳面に毎食後欠かすことなく。驚いた私はネットで調べた。作用、副作用、飲み合わせ。すると、降圧剤の副作用のところに「めまい」と、ある。母は3種類もの降圧剤を飲んでいたのだ。おまけにメニエールの薬まで。母がメニエールを患ったのは40年も昔のこと。40年も飲み続けてきたわけではないだろう。おそらく母が「頭がフラフラするんです」とかなんとか訴えて、それでは、と処方されたのだろうか?主治医に薬の説明を求めたが、のらりくらりと世間話でお茶を濁された。埒があかないので病院を替えた。若い先生が主治医となった。誠実な先生で、分厚い薬の本を脇に、丁寧に説明してくださる。

「お母様は心臓が悪いので、降圧剤を総てやめるわけにはいかないんですよ。」

と、いうことだったが、種類と量は徐々に減らしてもらえた。もちろん、メニエールの薬は真っ先に外してもらえた。降圧剤を減らした効果があったのかどうか、とりあえずは、転倒することはなかった。

母の経験から、降圧剤は恐ろしいなと思うようになった。ところが意外にも、降圧剤を服用している人は多い。私くらいの世代でも多い。厄介なのは誰でもが飲んでいるせいか、サプリメント程度にしか考えていないのでは、と思われることだ。

母が亡くなった後、叔母に薬は飲んでるか訊いたところ、飲んでいない、と言う。それは良かったと思っていたところ、意識が朦朧となって転倒したと言うので、「もしかして、降圧剤飲んでる?」と訊くと飲んでるよと言う。こんなことが2度3度とあり、主治医に相談するようすすめていたが、「そりゃあ、できんよ」と、笑うばかり。

今回も、何時意識を失ったのかわからないが、倒れているところを近所の人に見つけられ3人がかりで近所の病院へ運ばれ、応急処置の後、総合病院で精密検査した。骨折など重傷はなく元気だったが、顔は傷だらけで当初は血まみれだったという。

いとこの嫁は「ヒールのツッカケでつまずいて転んだんよ」と、年齢に合わない靴のせいにして笑う。しかし、そうであれば顔が血まみれになんてなるはずがない。人は転ぶとき本能的に顔を守ろうとする。(身体が不自由な人を除いて)顔が血まみれになっていたということは、意識がとんでいた、ということではないか。

やはり、私は降圧剤の副作用を疑ってしまうのだが・・・。

衰退三原市の象徴(2)

三原市の衰退とオギロパンの廃業が重なって見えることを、私個人の思い出と共に語ろうとして、記憶を確認するために年代やパン会社のHP等を調べていたら、面白くておもしろくて止まらなくなってきました。衰退や廃業が面白いのではありません。そこは、間違えないでください。  

 

昭和41,2年の三原駅前でのタカキベーカリーの宣伝は、9歳の私に「三原で愛されている老舗のオギロパンに殴り込みをかけてきた新参者のタカキベーカリー」という強烈な印象を与えました。そのせいか、私はパン屋というと常にオギロとタカキという二項対立で考えてしまいます。老舗の伝統にしがみつくのか、新しいものを追い求めるのか。しかし、パンそのものは日本人にとっては新しい食文化であり、パンにとっての伝統とは何ぞや?ということも興味深いです。

 

オギロパンは本当に三原市民に愛されていました。工場ができてからはパンの種類も増え、私の父なぞは段ボールにいっぱい買い込んでくるほど。

そんな三原の駅前に再びタカキが仕掛けてきました。セルフサービスのお店です。今でこそトレイにトングを持って好きなパンを選ぶのは日本全国当たり前の光景ですが、当時は斬新でした。かっこよかった❗️

最近、40代の女性達とお喋りしていて、このセルフサービスがかっこよかったんだと言ったら、「えっ?セルフじゃなかったら、どうやって買うの?」と言われ逆にびっくり。

調べてみると、このパンのセルフサービスは1967年(昭和42年)タカキが広島にアンデルセンをオープンしたときに始めた方法で、日本で初めての事だったのだそうです。  すごい⤴️⤴️

 

では、それ以前の売り方はどうだったかというと、ショーケースでした。和菓子屋さんや、洋菓子店の売り方です。高級感ありますよね。それに対してよろず屋(今で言うコンビニ?)等でもパンは売られていましたが、袋詰めされていて、当然、高級感はありません。

ですが、袋詰めだからこそ大量販売ができます。学校の売店タカキベーカリーが指定されていたのはそれが大きな理由だったのではないでしょうか。

私が三原を出て東京に行ったのは1975年。2年後の77年のこと。新宿西口には高層ビルが3つか4つ建ち並んでいて、どのビルだったか、地下1階のオープンテラスになっている素敵な空間にアンデルセンのお店がありました。みんなで食事に行った時、私は「このお店、広島が本店なんだよ」と自慢したら、大笑いされました。「アンデルセンは神戸が本店だよ。こんなおしゃれなお店は神戸に決まってるじゃない。田舎の広島にあるわけないでしょ。」5、6人いたはずですが、全員から笑われバカにされてしまいました。

私は新宿しか知りませんでしたが、アンデルセンは青山にお店を出していたそうですね。オシャレ~~。

 

結婚して広島に40年近く暮らし、この三原に帰ってきて、とても寂しく感じています。私が10代の頃(1965年~75年、昭和40年)の三原の街はもっと活気があったように思います。が、これは三原に限った話ではなく、日本全体が高度経済成長期だったんですね。

衰退三原市の象徴

2024年は能登地震という大災害で幕が明いた。

ここ三原市では、オギロパンの廃業のニュースに激震が走った。

【閉業】オギロパンさんが2024年1月6日をもって閉業されました。 https://mj-mihara.com/open_close/13273/

残念、淋しい、そして長年美味しいパンを届けてくれてありがとうという感謝の声が、日本全国(三原出身者)からsns上で飛び交った。私も遠方に暮らす妹達に知らせた。同窓生で作るLINEグループ上でも、fb上でも大きな話題になった。三原市民に愛されてきたパン屋さんでした。

 

と、過去形になる。愛されてきたからこそ、誰も客観的な事は言わない、書かない。

私はパンが大好きで、オギロパンの思い出は山ほどある。

思い出を中心に、歴史的な事など、いろいろ語ってみたい。

 

私はバスで、館町にある広大附属小学校に通っていました。(1964年4月~)給食が始まったのは65年4月から。でも、土曜日は給食がないので、バス通学の私はお弁当持参、もしくは学校のすぐそばにあったオギロパンを買いに行くことができました。毎週土曜日には50円持ってオギロパンに行き、20円のコーヒー牛乳、10円のジャムパン、バターパン(当時の商品名、現しゃりしゃりパン)、コッペパン(全国的にはメロンパン)と、大体決まっていましたが、あんパンだけは苦手でした。

オギロパンの店舗は館町だけでなく、駅前にもありました。こちらの方が当然、売上は大きかったと推察します。遠方から来る親戚の伯父さんは、手土産としてオギロのあんパンを持ってきていました。あんパンの苦手な私は伯父さんの丸い顔と体があんパンに見えて、叔父さんまでも苦手になってしまいました。何で手土産にあんパンを、と思っていましたが、当時の一般的感覚では、オギロのあんパンは高級和菓子に匹敵するくらいのものだったからではないでしょうか。というのも、あんパンは明治7年に木村屋で開発され大評判となり、翌年には天皇へ献上されたということですから、庶民にとってはあこがれの食べ物だったのでしょうね。

 

ところで、この駅前に、タカキベーカリーが進出してきました。バス通学していた私は、バスを待って毎日1時間程度はボーッと過ごしていたので、ぼんやりと記憶に残っています。

うるさかったのです❗️タカキベーカリーの宣伝を大音量でスピーカーから流し続けるのです。通りの同じ並びにあるオギロパンに戦意剥き出しの対抗宣伝のようなものでした。駅でバスを待つ人々にとってこの大音量の宣伝は本当に鬱陶しくて、逆効果でしかないように思えたのです。当時、小学校の担任の先生が話題に取り上げたので、おそらく1966,7年(昭和41,2年)頃の事だと思います。

昭和40年代に入ると、皆実町の蓮根畑を突っ切る国道2号線沿いに、次々と建物が建ち始めました。私は毎日通学するバスの中からその変化を眺めていました。オギロパンの工場もできました。大好きなオギロパンがいっぱい食べられるかと思いきや、2号線沿いの工場に途中下車してまで買いに行くわけにはいきません。しかも、工場建設と同時に学校前の店舗は閉められ、私が中学生になった時には校内の売店でパンが売られており、それはタカキベーカリーのパンでした。高校に入っても売店で売られているのはタカキベーカリー

私が高校生の頃(1973~1975)、出張で広島から帰ってきた父が大興奮していました。タカキベーカリーのやっているアンデルセンという店が素晴らしい❗️と。同じ頃、三原駅前ではタカキベーカリーがセルフ方式の販売を始めていました。今では当たり前ですが、当時は誰もがビックリの斬新なパン販売方法でした。

 

私が高校を卒業して三原を離れたのは1975年春。新幹線博多まで開通の時。あれから50年近く経つ。私がこの三原に戻ってきたのは7年前?8年前?

三原を離れていた間の街の衰退ぶりに愕然とする。何が?と問われても、具体的に答えられない。私には、オギロパンの廃業と三原市の衰退とが重なって見える。オギロパンの衰退はタカキベーカリーと比較することでよく見えてくる。パン文化を視点にもう少し考えてみたい。

再開

何度目の再開だろう。

snsだと、他人と違う考えを書きにくい。だから、ひっそりとこのブログで書けばいいものを、久々に書こうとすると形式が変わっていたり、写真を取り込みにくかったりして、つい、書きやすいFacebookになってしまっていた。Facebookは、あれはビジネスツールのような気がする。どちらも一長一短。使い分けが必要なようだ。