最終日前日にあわてて駆け込んだ展覧会。30年前、没後10年の展覧会には最終日に訪れ、涙が出てしまうほど感動したものです。今回、そこまでの感動を得られなかったのは、私の精神状態の差も大きいとは思いますが、作品数の差と、何より展示方法の違いによるものと思われます。前回は制作年代順でしたが、今回はテーマごとに分類されて展示されていました。
ただ、今回はタイトル表示にキャプションが結構つけられていて、そのせいで一枚のキャプションからとんでもないことに気づいてしまいました。まあ、気付いたというより、私が知らなかった、というだけのことですが。
時間を50年前に巻き戻します。私は美術短大の油絵科の学生でした。表現したいもの、表現方法、技術、自己の内面を見つめながら学んでいました。ある時指導して下さっていた先生が、私の絵を見ながら「鴨居玲」について話しはじめました。素晴らしい画家だから是非、見にいくように、と。初めて聞く名前で、しかも展覧会の情報もわからず、ただ「鴨居玲」という名前だけが脳裏に刻み込まれていました。
30年前の1995年、先生が「見なさい」と言われた名前を思い出し、震えるような気持ちで没後10年展に行きました。
「ああ~、これだ!私が出したかった色、マチエール、表現」村の酔っぱらいや老婆、人生の悲哀を込めた一枚一枚の絵に感動しながら進みます。口から蛾を吐き出す画には深く共鳴。というのも私自身高校生の頃に、軽薄な会話やテレビから流れてくる言葉に嫌気が差して、日記帳に同じような図柄の落書きをしているのです。あの時の想いがこんな風に深い作品になってしまうところに鴨居玲という作家の凄さを感じます。そして最後には・・・それについては後述します。制作年代順に作品を眺めていくと、突然、教会の絵が出てきます。同じ頃裸婦像も出てきます。何だか不思議です。違和感があります。正直に言うと、私はこれらのシリーズは好きではありません。教会の絵だけど、そこに信仰心は感じられません。むしろ宗教に対する恐怖を感じてしまいます。(すみません、信仰心のない私のかってな感想です)裸婦像はますますわかりません。何を表現したいのか、不気味ですらあります。ここに来て人生に迷いでも生じたのでしょうか?
うーん、わからん、と思いつつ歩を進めると自画像が並びはじめます。絶望したかのような虚ろな顔、視線のつかめない穴のように塗りつぶされた眼(描かれていないのに眼というのは変か?)、ため息というより最後のあがきのようにも見える空いた口。その口から飛び出してくる蛾。「しゃべる」と題されたその自画像(人物の姿からすると)は、己の空虚さを表しているのか?「勲章」というタイトルですが、勲章の位置にあるのはあきらかに酒瓶の蓋。「酔って候」「出を待つ(道化師)」「肖像」は皆、同じポーズ。「肖像」は鴨居玲の顔(仮面?)を手に持つのっぺらぼう、というひねりのきいた自画像です。だから同じポーズというのは、顔は違っても自画像だということでしょう。そしてこれら多くの自画像の真ん中にどーんと置かれた大作「私」
もう、涙が溢れます。鴨居玲というドラマを観終えたような感覚でした。その感動を抱きしめて、10周年記念の画集とエッセイ集「踊り候え」を買って帰りましたが、エッセイ集を開くことはありませんでした。感動も日常の雑事に覆われ、30年の時が流れてしまいました。
今回びっくりしたキャプションというのは、パレットに描かれた自画像のものでした。「美術評論家の坂崎乙郞氏に贈られた」と、ありました❗️
坂崎乙郞!坂崎乙郞!
再び50年前に戻ります。美術短大生の私は坂崎乙郞氏の追っかけ、というほどではないですが、氏の著作を読み、講演を聞きに行っておりました。これも指導してもらっていた先生から勧められたんだったかなぁ?私は氏の言葉をまるで神の言葉のように受け止め、絵とは何?何を表現するの?と、考えていました。その坂崎先生が翌年から我が大学の講師として迎えられるということで、これは何としても短大卒業後に4年制に編入しなくては、と、焦りました。しかし私には経済的な余裕がく、悩みに悩んでおりましたところ、偶然にも横断歩道で坂崎先生と出会ったのです。もちろん、先生は私のことは知りません。が、私の切迫した視線に気付かれたのか、不思議そうな表情で私を見て行かれます。あまりにも突然で、声を掛けてよいものかどうか、私にとって神様のような存在で畏れ多く、そのまますれ違ってしまいました。情けないやら悲しいやら、でもこれは私の熱意の無さの証明であり、編入は諦めろ、ということなんだろう、そう判断し、卒業後は働くことにしました。
結局、私はその後結婚し、子育てに終われる日々。そんなある日、私は坂崎乙郞氏の死亡記事を見つけました。自死とありました。なぜ?何で?どうして?これで絵と私の縁は切れたな、と観念しました。
私の大好きな画家、鴨居玲と、大好きな評論家、坂崎乙郞に繋がりがあったなんて、美術界隈に気を配っていれば気付きそうなもの。気付かなかったということは、二人に繋がりができたのは私の短大卒業後だろう。それにしても、自死された坂崎氏に自画像を贈るって、え?もしかして、鴨居玲も自死?私は慌てて展覧会場でスマホを取り出し、調べはじめました。予想通りでした。鴨居玲は1985年9月7日に、後を追うように坂崎乙郞は同年12月21日に亡くなっているのです。私が気付かなかったのは、私がまだ鴨居玲の絵を見ていなかったせいでしょう。そして1985年8月といえば、日航ジャンボ機が御巣鷹に墜落した時です。私はその時二人目の子を流産しそうになり、入院してました。入院したにも関わらず流産してしまい、社会の出来事どころではない日々でした。そんな時に目にしたのが、尊敬する坂崎先生の自死のニュースだったのです。
30年前の展覧会で涙が出たのは、まるで死を予感するかのような肖像画が並び、そして急逝。展覧会では急逝という言葉が使われているのでわからなかったのです。が、あの自画像達はあきらかに死に向かっています。
展覧会から帰ってきて私は直ぐ様、本棚の奥で眠っていた50年前の坂崎乙郞氏の著書と30年前の鴨居玲展覧会の画集とエッセイ集を探しだして読み始めました。
50年前あんなに憧れていた坂崎氏なのに、講演の中身も著書の内容も全く覚えていない、という情けなさ。でも、読み始めてすぐにわかりました。私の絵の見方は先生の影響そのものです。絵を見るではなく、絵を読むんです。絵の中にある精神性を。ただ、読める絵に出会えるのは少ないですが。そういう意味で言うと、鴨居玲ほどドラマティックに語りかけてくる絵はなかなかないでしょう。
エッセイ集はなかなか面白くて思わず吹き出してしまうところも。ですが、自分の絵について語っているところはどれも深い!これを読んで絵を見ると、より一層味わい深いものとなります。そして驚いたことには、このエッセイ集の中に坂崎乙郞氏との対談が収録されていたのです。何で30年前に気付かなかったのか!物凄く深い対談です。ここまで深く掘り下げて語り合えるのか、と、ため息が出ます。語り合いの行き着く先は「死」です。
再度私の話で恐縮ですが、短大入学してすぐ、6月4日に父が亡くなりました。私の美大進学に一番理解をしてくれていたのが父でしたが、父がいなくなるということは、精神的支柱が無くなる以上に経済的支柱の方が問題でした。なぜ絵を描くのか、という命題は物心両面の問題でもありましたが、「死」をどう見つめるのかということは大きなテーマになったのです。絵だけでなく、私はクラブ活動でモダンダンスを始めていましたから、肉体で何を表現するのか、という難問まで抱えてしまいました。自分の内にある何かを踊りで、絵で表現していくんだ!という高慢ちきな思いとは裏腹に伴わない技術不足で空回りばかり。空回りするのは技術不足 からだけではありません。むしろ何を表現するのか、の、「何」が消化しきれていなかったんだと思います。今ならそれを「宇宙の輪廻」と、言葉にするかもしれません。プラス「死への恐れ」でしょうか。真逆の観念です。空回りも当然です。こんな私ですが、絵を続けていたなら、ほんの少しくらいは鴨居玲に近づけたでしょうか。
なぜ絵をやめたのか。一番の理由は妊娠、出産です。すべての芸術とは言いませんが、人間の弱さや暗部をえぐり出す芸術に嫌気がさしたのです。これから産まれてくる赤ちゃんを思ってお腹をさすっていると、例えばマルキ·ド·サド「悪徳の栄え」和訳澁澤龍彦の本がとてもおぞましく見え、捨ててしまったほどです。日常の中で子どもを育てるということは、芸術に近づけなくなってしまうらしいです。考えても見てください。命を育てている時に「死」は考えられません。子どもを産んで私が一番変わったな、と感じたのは、「死」が恐くなくなったこと。自分の死より、子どもの「死」が恐くてたまらない。そういえば、エッセイ集の中で鴨居玲は飼い犬の話で、母の言葉をのせている。
~うかつにあいつ(飼い犬)より早く死ぬ訳にもゆかないなどと、身軽だったいままでの私には始めての経験ともいえるみょうな気持ちをこの頃味わっている。そういえば死んだおっかさんも、「お前がもう少し、しっかりするまでは死に切れんー」などとよく同じようなことを言っていたのを思い出し苦笑しております。
展覧会の感想のつもりが半分自伝のようになっちゃいました。それだけ、鴨居玲という作家は人の感性に刺激を与えてしまうんですね。鴨居玲を入り口に、人生についての対話がいくらでもできそうです。どなたか、お付き合いくださいませ。